




































こんにちは。
南フランス(+パリ近郊)の旅も大詰めです。
ジヴェルニーで「モネの家」を見たあと パリへ向かい、夜にホテル到着。
パリで2泊して、翌々日の夜8時頃の帰国便に乗ります。
1泊した翌日の午前は、バスで市街地を一周のあと、セーヌ川クルーズでした。
クルーズのあと、ルーブル美術館の近くで ランチ後に一旦解散し、各自自由行動です。
午後1時に解散して、午後5時にホテルのロビーに再集合なので、約4時間のフリータイム。
ホテルは 新都心の ラ・デファンス地区にあり、ルーブルからは地下鉄で11駅の距離なので、徒歩で帰還はさすがに難しく、地下鉄かTAXIを使っての、ちょっとした冒険タイム。
筆者は ツアーの皆と離れて単独で、ルーブル前から徒歩でコンコルド広場経由でセーヌ河畔の散策を計画。 セーヌの対岸に渡って、アレクサンドル3世橋、(シャンゼリゼ裏の)フランソワ1世通りを通って シャンゼリゼに出て、さらに凱旋門まで歩きます。 凱旋門近くの地下鉄駅から乗ってホテルのある ラ・デファンスへ地下鉄で帰ることにしました。
(独自行動が不安な人やグループは、ツアーディレクターさんが ノートルダム寺院などに連れて行ってくれるらしいです。)
さて自由行動出発。 ルーブル美術館前です。

ルーブル美術館と対面する形で、 オペラ通りの先 徒歩10分ほどの距離にオペラ座が見えます。 下の写真の青い壁面パネルのビルが「パリのオペラ座」です。今日は行きません。

さて、先ずコンコルド広場に行きたい。地元の人なら目と鼻の先でしょう。こちらはお上りさん状態。
もちろん スマホのGoogleMapsが頼りだが、Mapに出て来る「通り」の名前が 街路に必ず表示されているわけでもないし、一つ通りを渡ると どっちを見ても似たような石造りのビルだし、そのビル名もわからないし、フランス語も話せない。パリは初めてではなかったが、ルーブル美術館が見えなくなると斜めの道も多く、選ぶ道が怪しくなって来た。
こういう時は、太陽の方角と、絶対に動かない 何か長い直線のものを絶対基準にしてMapを見るのが直感的に分かり易い。
日本だったら新幹線などの線路とか....。愛知県・岐阜県だったら長良川、パリだったらセーヌ河。自分が まだルーブル美術館からそう離れていないなら、セーヌ河はルーブル美術館の向こう側を流れていて、セーヌは西北西に伸びているはず。緑地(チェイルリー庭園)はセーヌと並行に走っていて、遠くに緑地が見えるので、これも目印になる。
洒落た街並みだが、店の名前などに慣れていないので スイスイ とは行かない。


予定のコースとは少しずれたが、由緒あるらしい広場が見えて来た。
スマホ写真を AIの ”チャッピー”に見せると、「ヴァンドーム広場」と教えてくれた。

このヴァンドーム広場、元々はルイ14世の栄光を誇示するために造られた広場だったが、その後 ナポレオンの「アウステルリッツの戦い」の勝利を讃えて改造されたとか。
写真の「大陸軍の柱」の頂上にはナポレオンの像が飾られているようだ。

更に少し行くと、先ほどの尖塔とは違って優美な建物。マドレーヌ教会だった。

ようやく見えて来た、コンコルド広場。

下の写真は エジプトから贈られたルクソールのオベリスクだそうです。(本物の古代エジプトのオベリスクだそうです。)
オベリスクとは、古代エジプトの太陽神信仰を象徴する(神を讃える)ものだそうです。

このオベリスク、造られたのは紀元前13世紀ごろ (3300年前 !) だそうで、エジプトの「ルクソール神殿」に立っていた2本のうちの1本だという。
そして、1830年にエジプトからフランスに贈られたのだとか.....。
紀元前13世紀とか、エジプトから わざわざ運んだとか、直ちには実感できない話。
島の日本の文化と 大陸の文化は違うものだと改めて知ります。
コンコルド広場を横切って、セーヌ河にかかるコンコルド橋を渡ります。

コンコルド橋の中ほどからの眺め。左手にエッフェル塔も見えて、インスタ映えする素晴らしい景色! 筆者は基本的に水辺の景色が大好き。
気温は30度を超えているが、橋を横切る川風も 涼しい。
上の写真で、少し向こうに見える橋が、「アレクサンドル3世橋」です。
セーヌ河に架かる橋で一番美しいとされているそうです。
セーヌ左岸をゆっくり歩いていると、クルーズ船が通ってゆく。
今日の午前に乗ったクルーズ船と似ている。

アレクサンドル3世橋。その向こうには、1900年のパリ万博会場となった「グランパレ」が見えます。

左岸を歩いて近づきました。両岸の橋のたもとに立派な塔柱。
塔柱の上には、ペガサス (馬の化身) と 女神像 が乗っている。

橋の中ほどには、装飾意匠の「マスカロン」が。
これはヨーロッパの伝統的な人面装飾だそうです。日本の家や城の屋根に置く魔除けの鬼瓦に近いイメージだろうか。

アレクサンドル3世橋を渡って、もう一度セーヌの右側の河岸へ。
アルマ橋の近くに行ってみました。「自由の炎」のオブジェがある。
下の写真の中ほど少し左の金色のオブジェです。

このオブジェは、ニューヨークの自由の女神のたいまつの炎を、実物と全く同じサイズで この地に再現したもので、自由の女神の返礼として、インターナショナル・ニューヨーク・タイムスから フランスに贈られたものだとか。 本来の意味は米仏友好の証です。
一方で、近年ではむしろ、英プリンセス・ダイアナの非公式な記念碑として世界的に知られるようになりました。1997年8月、ダイアナ妃が亡くなった交通事故は、この下を通る「アルマ橋のトンネル」で起きたためです。今も人の訪れが絶えないスポットだそうです。
さて、アルマ橋から グランパレの近くを左に曲がり、裏道の「フランソワ1世通り」に入りました。

パリの ど真ん中「8区」にあるフランソワ1世通りは、ルネサンス期の国王の名にちなんでいますが、その特徴は、パリを代表する最高級エリア「黄金の三角地帯」にありながら、大通りと比べると人通りがやや落ち着いていて、華やかでありながら気品を備えた隠れ家的な落ち着きがあるとの評です。19世紀のパリ大改造の時代に整備された通りだそうで、20世紀に入って、映画製作のジャン・コクトー監督や 名優ジャン=ルイ・バローなどが住まいを構えていたとか。
通り沿いの ティファニー や ディオール を横目で見つつ散策。


あれ!こんなところに日本人向け旅行会社のオフィスが...。

少し疲れたので、シャンゼリゼ通りの手前で cafe52 に入りました。


(この席 ↑↑ に 座りました)
デトックスジュース🍹を注文し30分ほど休憩です。このあと、満席になってきました。
さて、メインのシャンゼリゼ通りへ。
多くの 超高級ブランドのフラグシップ店が 軒を並べている。


サンぜリゼ通りを凱旋門まで来ました。

予定通り 凱旋門の近くで1号線の駅から地下鉄に乗車。
さて、ホテルがある エスプラナーデ・ラ・デファンスの駅で降り、出口改札まで来て、ハタと困りました。出口は回転ゲートで NAVIGO (SUICAみたいなカード) をタッチする機械が無い!
凱旋門駅で入場の際に NAVIGOを 改札機にタッチしないまま乗車していたらしい。乗った凱旋門駅ではタッチの場所を見た記憶がない! パリは初めてではなかったが、NAVIGOは初めての使用で要領がわからずだった。
降車駅のラ・デファンスは無人駅のため、駅員さんに経緯を説明できないまま、仕方なく出口の回転ドアをそのまま通過しました。NAVIGOカードを 数ユーロできちっと買っていたのに、結果的に無賃の乗車になった。これは本来なら罰金だそうです。
更に、今朝 ホテルからわざわざ行って確認したラ・デファンス駅の「改札」の場所が、たった今出た改札と違った改札だったせいで、ホテルへの帰り道がわからなくなった。GoogleMapsを見てみたが、新都心のデフアンス地区は 地面の道以外に デッキになった舗道層が上に2層あり、Googlemapsは 立体表示 に弱い。Google Mapsがアドバイスしてくる方向は激しく変わった。Googleに過剰依存して同じ所をグルグル回らされそうになった。
仕方なく 本屋兼コンビニの店入って親切な亭主にホテル名を伝えて聞いたら、方角を教えてくれた。その方角を信じてGoogle の ホテルまでの残り時間表示を頼りに、結局 改札を出てから都合30分以上かかって ホテルへ着いたのでした。

何とかホテルにたどり着いて 自分の部屋に戻ってシャワーを浴び、夕方のツアー再集合(to Dinner) の時間に間に合いました。
なかなか面白い自由時間となりました。
今回の旅行記も、これで一区切りとなります。
ではまた。
こんにちは。
南フランスの旅、前回までの投稿、「歴史遍路」、「芸術家たちの街 <3の1>」、「芸術家たちの街 <3の2>」までの行程をおさらいしてみます。
パリ(ベルサイユ宮殿)→ ニース → 鷲の巣村 エズ → モナコ → ニース(再) → アルル → アビニョン → ポン・デュ・ガール → カルカソンヌ → ミディ運河 → ロートレック → アルビ と来ました。
その後は、アルビ → ボルドー → サンテミリオン →ボルドー(再) → トゥール → ロワール地方 → モン サン ミシェル → ジウ”ルニー → パリ → 帰国
となります。
今日のブログ『 芸術家たちの街 <3の3> 』では、アルビから 途中をパスして、ジウ”ルニーの、『モネの家』について書きます。
まだ書いていない サンテ ミリオン、ミディ運河、モン サン ミシェル などの訪問地については、いずれまた 改めて書く予定です。
さて、ボルドーからトゥールまでは距離があるので特急のTGVに乗って 移動時間を短縮し、トゥールを2時間ほど観光中に 貸し切り観光バスが追い付くという形で 旅程を進みました。
トゥール観光後、追い付いて来たバスに乗って ロワール、モンサンミシェルを経由して、印象派のクロード・モネの自宅と睡蓮池がある「ジウ”ルニー」に近づきました。
ジウ”ェルニーは、パリと同じくセーヌ川の流域だそうで、ジウ”ェルニーが上流です。

このあたりの普通の戸建ての家です。


北部フランスでは、石造りの家は それほど多くないとのこと。
最近のフランスの家は、コンクリートのブロックを組み上げて構造を作り、外壁はモルタルで塗るそうです。 ということで、石の雰囲気はなく、外壁は白くて つなぎ目が見えませんよね。
さて、個人でジウ”ェルニーに向かう場合の基本ルートは、パリのサン・ラザール駅から急行列車(TER)でヴェルノン駅を目指し、そこからバス等に乗り継ぐ形となるようです。パリ(サン・ラザール駅)からモネの家までは、電車とバスで、合計で1時間15分から1時間半ほどだそうです。
バスを降りてすぐの印象は、ジウ”ェルニーは静かな所でした。
モネの家への案内板がありました。

モネの家に近づくと観光客が急に増えました、(もし観光客がいないとすれば) とても静かだな村だろうと想像できる。モネの家への観光ブームが、地域の雰囲気を一変させたらしいです。 道路の横断規制など 地域のルールも大きく変わったとのことです。
木々や花に囲まれた、のどかな たたずまいの家がならんでいます。

バスの待機所から歩いて5分ほど、「入場券売り場」に着きました。
当日券を求めて1時間以上の長蛇の列ができることも多く、更に混雑時には入場制限がかかる可能性もあるとのこと。午前の早めに到着したいですね。

観光客は、白人と言わず、東洋人などの黄色人種と言わず、褐色の肌の人と言わず様々で、世界各国に モネのファンがいることがわかりました。
モネの家の敷地は、下記の図のように「水辺の庭」、「花の庭」、「モネの家」からなっています。 水辺の庭は、名画「睡蓮」のモデルとなった池があります。

順路に従って「水辺の庭」に入りました。
オレンジ色の花は「ノカンゾウ」のようです。


ここが「睡蓮池」ですね。

淡い うす紫の「カンパニュラ」が美しい!


濃い色のカンパニュラも。

睡蓮が咲いている。これが描かれた睡蓮でしょうか?

日本庭園から影響を受けたという、人気の「太鼓橋」です。

太鼓橋と「ゼラニウム」の赤い花

「花の庭」に入りました。 これは ジャーマン・アイリス でしょうか。

ほどなく「モネの家」が目の前に。

上の写真で、人が入場している入口がありますが、その左側の部屋がアトリエ、その上(2階)がモネの寝室だったそうです。
今日は空いているほうだ、とのことでしたが、家を見学するのに、30~40メートルくらいの列ができていました。

家の中「アトリエ」に入りました。
絵はすべてレプリカとのこと。それにしても、ものすごい数の絵!

下記が、モネが好んで描いた「睡蓮」の一つですね。

下記、「オランダの風車」と「日傘の女」 だそうです。

親しかった オーギュスト・ルノワールが描いたという『読書をするクロード・モネ』

2階の窓から「花の庭」がよく見える。

非常に多くの浮世絵のコレクションが館内にありました。
印象派に大きな影響を与えたという浮世絵。「写実ではなく、見た瞬間の印象をどう表現するか」という方向性について、印象派を後押ししたとのことです。

寝室。

また浮世絵。

1階に降りて来ました。
広いダイニングです。

やはり欧州的な美しい絵柄の食器。

暖炉と調理コンロ。

鍋のコレクションが多い。

モネの家をすべて見終わって、売店でお土産を買って、Sortie 方向に出て来ました。
出口付近に、居宅前の「花の庭」を散策するモネの様子を写した写真とポートレート。


爽やかな睡蓮池を描くモネの作品と、モネに影響を与えた日本庭園や浮世絵、住んでいた家の様子や調度品を堪能しました。

ここまでの行程で多かったフランス中世〜近世の旧市街や古城とは 打って変わった雰囲気の ジヴェルニーのモネの家を後にして、バスは最後の訪問地のパリへ向かいます。
パリはもう近い、1時間15分ほどで着くそうです。
ではまた。
こんにちは。
フランス旅行記の「芸術家たちの街」(2回目) です。
アルルを後にして、ロートレックへ向かいました。
KKKKKKKKKKKKKKKKKKK
もうすぐロートレック村という地点で、有名なワインどころのガイヤック(Gaillac)の近くを通りますが、葡萄園の多い地域になってきました。

ロートレックに到着です。まだ午前中(10時半頃)の時間帯ではあるけれど、ここは観光地という雰囲気は 全然ありません。
もうお気づきと思いますが、この村は19世紀末のベル・エポック期の画家・版画家の「ロートレック」と関連があります。画家のロートレックの実家の正式な名は「トゥールーズ・ロートレック家」と言い、フランス王国時代屈指の貴族の超名門であったそうです。
ロートレック家は 11~12世紀ごろ、伯爵家として 現在のフランス南西部から南フランス一帯を支配していたという。主な地名で言えば、現在フランス第4位の大都市であるトゥールーズ市、ロートレックが生まれたアルビ市、ここロートレック村 などの多くの都市を含む 広大な地域を治めていた名門であったと。

さて、村役場の庁舎の前を通って、村の中心部へ。

下の写真は 村のメインの通りの様子です。
人通りも少なく、村人が自然に行きかう以外は、ツーリストの気配は全くありません。
ツアー・ディレクターさんから、「まだ午前中ですし、外からの観光客がほとんど無い村ですから、住民の皆さんを驚かせることがないよう、静かに歩いて雰囲気を味わいましょう。」とコメントがありました。

さて この ロートレック村は、『フランスの最も美しい村150』に選ばれているとのこと。
< フランスの最も美しい村とは? >
1982年に、地方の村の保全と活性化を目的として、「フランスの最も美しい村協会」が設立されたそうです。 選定委員会にて、厳しい選定基準にて選ばれているそうです。
主な選定基準は、
① 人口が2000人未満であること
② 質の高い保護財産を有し、村らしい居住空間が確保されていること
③ 建物の外観に調和がとれていること
④ 自治体の議会で ”最も美しい村協会” 参加の同意が得られていること
とのことです。
また、ロートレックは、染料の「パステル」の産地でもあるとか。
「パステル カラー」というと、日本では 淡い明るい色全般を指すと思いますが、こちら本場の産地では、インディゴ・ブルー系の「青」(だけ) を指すそうです。
元々の「パステル」 (Pastel) の意味は、アブラナ科の (和名) タイセイ (大青) という黄色い花の植物の名だと。 このパステル草の緑色の葉を収穫し、細かく砕いて丸めて団子状にし、発酵乾燥させると染料玉となる。それを改めて砕いて染料の原料にするという。
和名 タイセイ(植物)の写真をネットからお借りしました。

パステルカラー染めをした生地の衣料品の店がありました。

非常に爽やかな青です。

レンガ色の屋根、黄土色の壁に、青いパステルカラーの雨戸がよく映えます。清々しいですね。

ほとんどの住居が石造りのフランスですが、プロバンスでは外壁に木を使った家も少ないながら 時々見かけます。日本を離れて ほんの数日余りではあるけれど、一部分でも木をまとった家を見ると、ちょっとホッとする。

村の端の高台に 風車があります。粉ひき用でしょうか。

風車の高台は、村全体を見渡す展望台も兼ねていました。こういった素朴な田舎の風景は、いつまでも保存してほしいものです。

村の青年?が、手で風車を回して実演してくれました。
ツアーの一行からは拍手喝さいが起き、人気者になっていました。

この村、工芸も盛んということで、手工芸品や木のサンダルの小さな店。

昼前になって村の人々が出かけるのか、素朴な生活の風景。

ハンドメイド雑貨の看板。(Creation Artisanale = 職人の手による創作物)


赤い雨戸の家もまた絵になります。

ロートレック村を後にして、アルビに向かいます。
アルビの街です。

下の写真 (正面) は、ロートレックの生家。

しっかりとパネルで表示されています。

この家は、アルビ出身の著名な探検家「ラ・ペルーズ」の生家だそうです。

アルビの探検家のラ・ペルーズは、18世紀後半、当時のフランス国王ルイ16世の命により、当時まだ未知の世界であった太平洋周辺の探索を行った。
当時、西洋においては、極東の樺太が島なのか半島なのかが不明であったところ、ラ・ペルーズは 北海道と樺太の間を通過すると同時に、測量により樺太と北海道の間の水路が確認されたとされています。この功績から 宗谷海峡の英名は、Le Perouse Strait と呼ばれているそうです。
アルビの街並みの写真が続きます。



柱に貼られたこの印は、「フランスの歴史的記念物」を示す公式ロゴマークだそうです。

古都アルビの名所である「サン・サルウ”ィ教会」を説明するパノーです。

このサン=サルヴィ教会は、ロマネスクとゴシックが融合した「建築美」で、現在も世界的に有名とのことです。数百年にわたり増改築が繰り返されたため、2つの建築様式がひとつの建物に見事に融合しているとの評価です。
例えば、建材として石とレンガの混在。アルビ特有の赤レンガと、周辺から運ばれた白石(石灰岩)が混ざり合った独特の壁面を持っています。


奇跡的に残った「美しい回廊(クロワートル)」も見どころです。
サン・サルヴィ教会を、一層有名にしているのは、この回廊と言われています。

さて、アルビ観光の歩みを進めます。
この陶器の店は、アルビ市内の目抜き通りの露店。アルビは陶芸が盛んだそうです。

アルビでは、上質の赤粘土(テラコッタ)を産出したことから、陶器づくりも発展したという。この青はコバルトから出しているという。
司教座都市アルビのサント・セシル大聖堂が見えてきました。
まるで城塞のような、いかつい 造りの教会です。
この建物、13世紀末から建立が始まって完成まで200年ほどかかったそうですが、この時代は、「ローマ教会」と「カタリ派」の対立が激しく、ローマ教会とフランス国王が協同で「アルビジョワ十字軍」を出すほどの戦乱の激しい時代であったため、いつ敵側の攻撃があるかも知れないということで、教会の建物も防御の堅い造りであったようです。

この教会は聖歌隊席周辺の彫刻意匠に定評があるとか。

セント・セシル大聖堂に隣り合ってロートレック美術館(ベルビ宮殿)があります。
入口付近にアンリ・ド・トゥールーズ・ロートレックの肖像写真が飾られていました。
ロートレックは、先にも書きましたが、19世紀末のベル・エポック時代の画家・版画家です。
パリの夜の社交場の絵やポスター絵を多く描き、広告画を芸術に押し上げたとされています。なかでも、『ムーラン・ルージュにて』は、代表作とされています。

美術館の窓ガラスには、ロートレックの創作風景の写真が貼られていて、雰囲気を演出しています。ロートレックが生きて動いているかのように見えます。

代表作の一つ『ムーランルージュにて』のポスター (ネットからお借りしました)

さて、セント・セシル大聖堂には、一般には開放されてはいないそうですが、「トリビューン」(バルコニー状の二階)がありました。 ガイド付きツアーということで登ることができました。
写真は、トリビューン (バルコニー) からの眺めです。アルビ旧市街が一望できます。

南フランスにはいくつもの古都(歴史を刻んだ街)があり、また芸術の国フランスを代表する有名アーティストの生家の街や活躍の地がありました。
名所が多く、覚えきれないくらいです。
次回は、北部の「ジヴェルニー」について 書きます。
ではまた。
こんにちは。
今日は、過日のフランス旅行の間に訪れた 芸術家たちにゆかりの場所について、書いてみます。その<1/3>です。
地中海沿いの街ニースから日帰りで、鷲の巣村 エズ を訪問。
エズは、中世の頃 崖や岩山の斜面や上にへばりつくように作られた集落が起源とのこと。元は地中海を監視するために山の上が開発されたとか。
また、ここは、ニースに住んでいたというマティスやボナールなどが訪れて、地中海を望む風景を好んでスケッチ作品を残した場所とも言われています。
近づくと このように崖に家が建っています。

下の写真の地点が、エズ 鷲の巣村への登り口です。
無料で訪問できますが、トップにある展望台は有料となっています。

登る道沿いには、芸術的な品などを扱う お洒落なブティックが並んでいます。

これは自然の岩石と建物を一体化した造りか?!

展望台から見下ろす地中海の景色。

地中海は、大西洋との間で 強い潮の流れが無いので、沿岸の気温は比較的安定しているそうです。そして夏は乾燥していて晴天が多く、冬は温暖で雨が降るとのこと。
オリーブやぶどうなどの栽培に向いているようです。
街はお洒落で歩くのが楽しく、展望台からの眺めはとても素晴らしかった。
さて、エズ と ニース近郊を後にして、アルルへ。
前号では 歴史に着目してアルル訪問記を書きましたが、今回は、絵画・後期印象派 の ウ”ィンセント・ウ”ァン・ゴッホ が主役です。
前回でも地中海岸からアルル地方に至る原野の風景を載せましたが、南仏プロバンス地方には「糸杉」の木が多くあります。あとは、ポプラも多いです。
ツアーディレクターさんによると、プロバンス地方は高い山がないので、フランス北部からの冷たい風が、内陸を通って地中海へと 強く吹き降ろすそうです。
ローヌ渓谷が風の通り道となっていて、特に12月から4月頃にかけては、冷たく一直線に強く吹くのだとか...。 地元では、” ミストラル ” と呼ばれているそうです。
この強い風から家や農作物を守るため、車窓から防風林が多く見えますが、糸杉とポプラ がその役目を負っているようです。
下の写真の円錐形に 細くとんがった木が ”糸杉”(サイプレス)です。
ゴッホは、風景画では 糸杉を特に好んで描いていて、それを直接描いたり 背景に入れた作品を 10点以上残しているとのこと。 後で改めて出て来ます。
糸杉の並木。 枝が横に広がらないのが不思議ですね。

アルルに近づきました。
ここは 高速を降りてしばらく走ったアルル 入口に入る接続交差点。
フランスには 日本のような交通信号付きの交差点は、(大都市中心部を除いては)ほとんど見られず、写真のような「ロータリー」ばかりです。

最初に、跳ね橋を見に行きます。
ゴッホの『アルルの跳ね橋』の絵のモデルに近いと言われ、「ウ”ァン・ゴッホ橋」と呼ばれている跳ね橋を観に行きます。

現存する跳ね橋と、絵は、同じに見えるでしょうか??
跳ね橋が架かる川が近づいて来た。

バスを降りて跳ね橋へ。
意外に素朴な橋です。 さすがに古い! 優に百年以上経った建造物とすぐわかる。

近づきます。

ゴッホの絵では、橋の上を幌馬車が通っていますが、この跳ね橋は そこまで大きくはなさそう。
ゴッホが実際に描いた橋は 老朽化などで失われ、この橋は後に移築再現された橋だそうです。場所も完全に同じ場所ではないかも知れない。
ただ、雰囲気は絵画の「アルルの跳ね橋」を髣髴とさせるものがあり、プロバンスの田園風景に素朴に溶け込んでいました。
さて、アルルの市街中心部に入ります。
観光バスの待機ターミナルで下車。
バスプラザの近くに大きなホテルがあり、その名も『HOTEL JULES CESAR』。
筆者には、歴史の教科書の中だけの人物に過ぎない「ジュリアス・シーザー」。 しかもローマ帝国より更に古い 紀元前の「共和制ローマ時代」の人。
それにしても、 紀元前に自国を制圧した「敵」の大将であるシーザーを、21世紀の今も フランス国内でホテルの名に冠して 残していることに 少し驚きます。 長い年月を超えてローマの文化的な影響が濃く強いのだと思いました。ここは多くの国と国境を接する大陸の国。 島国の日本には なかなかわからないことかも。

古都アルルの旧市街を、さらに中心部へと進みます。

途中の商店街には様々な土産物屋が...。
下の写真は、プロバンス地方の伝統的な菓子「カリソン (calisson)」です。

Callison(カリソン) は、南仏プロバンス地方を代表する伝統菓子ということです。
特徴は、
・舟型(アーモンドの葉のような形)
・表面に白いロイヤルアイシング(糖衣)のコーティング
・中身は、アーモンド粉+砂糖+果物 (オレンジやメロン) の砂糖漬け
・食感は、しっとりと柔らかい
だそうです。カリソンは、15世紀ころに ポール・セザンヌの故郷であるエクス市 (アルルから60キロくらいの近い街) で生まれたとか。
さて、ウ”ィンセント・ウ”ァン・ゴッホ ゆかりのエリアに近づきます。
ゴッホが療養していたという、『オテル・デュー病院』 の正面入口です。年代を感じる建て物。
ゴッホの時代から約140年、今も石造りのまま残っている....。 日本だったら残ってないですね。

ゴッホは、ご承知のように、アルルの「黄色い家」で同居しながら創作活動していたゴーギャンと いつしか衝突するようになり、錯乱し、1882年12月 自分の左耳の一部を切り落としたことは よく知られています。 その直後に入院します。その病院が、この「オテル・デュー病院」だとか。
病院の正面扉を入って細い通路を抜けると、目の前に 広い中庭が広がる。
オテル・デュー病院の 療養室の建物 と 中庭 が、「エスパス・ウ”ァン・ゴッホ」という名で、現在はゴッホの記念館になっています。

写真は、ゴッホの代表作の一つである『アルルの病院の中庭』を示しながら説明してくださるツアー・ディレクターの方です。もちろん日本語です。この方は日本在住ですが、フランス語には全然不自由していませんでした。


下の写真の庭は、上の絵画『アルルの病院の中庭』に描かれた庭の、現代に引き継がれた実際の姿です。
フランス人好みの幾何学模様の庭(花壇)ですね。

ゴッホは1888年2月にパリを離れてアルルに移住して来たそうです。
その わずか10か月後には入院に至ったということなのです。このわずかな期間に多くの名画を残したそうです。
ゴッホゆかりの 次の地点 に歩を進めます。
旧市街の街並みを味わいながらです。
ここは、ビグルダン・カマルグという蒸留所のようです。
ジン や パステス を醸造するようです。パステスとは、アニスなどのボタニカルを原料とした蒸留酒系のリキュールで、香草の香りを楽しむものだそうです。

近代絵画も街角に飾る芸術の街。

さて、下の写真です。「フレデリック・ミストラル通り」とあります。

この通りは、アルルに近いマイヤーヌ出身の ノーベル文学賞作家「フレデリック・ミストラル」の名を冠しているらしい。「バーム邸」など歴史的な貴族の館が立ち並んだ由緒ある道だそうです。
標識の左肩にあるライオンの紋章は、アルル市の公式の紋章とのことで、特に市内の歴史的な通りを指す標識に、この紋章が入るようです。
ミストラル通り、石畳で風情があります。

さて広場が見えて来た。ゴッホゆかりの場所に近づきます。

下の写真は、この場所が まさにゴッホが住んでいた時代のアルルの中心部の『(PLACE DU FORUM) フォルム広場』であったことをビルのプラック(表示版)が示しています。そしてゴッホはこの広場の一角にあったカフェを見て、1888年9月頃に 代表作の一つ『夜のカフェテラス』を描いたのだと。

この絵が『夜のカフェテリア』です。

そして、絵のモデルとなったのが、下のカフェ・レストラン だとのこと。似ていますか? 壁が黄色いのは共通していますね。

ゴッホが見て描いたカフェテリアはもう現存していないそうで、今建っているのは、ゴッホの絵の雰囲気から同じ場所に再現したものらしく、「ル・カフェ・ウ”ァン・ゴッホ」という店です。いずれにしてもこの広場は、ゴッホが気に入ってしばしば通っていた場所だったようです。
さて、来たのとは別の道を通ってバスに戻ります。
道の両側の建物がツタでつながった風情のある通り。

下の写真。レンガ色の壁の左側に黒い小さな板が見えます。

拡大しました。

その黒い板の下に、「フィンセント ファン ゴッホ財団アルル はこちら」という案内を書いた白い横長のプレートがあります。
この財団館は、ゴッホと現代アートの交流拠点と位置づけられて、ゴッホの作品を展示しつつ現代アーティストの作品とも対比して展示し、ゴッホの後世への影響を解説している施設だそうです。
さて、バスへの戻り道の写真です。
ゴッホの作品が絵葉書になって売られています。

地元の衣料品を売る店。

ニースからアルルに向かう途中の プロバンスの原野で、数多くの「糸杉」を見ました。
ゴッホは、屋外風景では「糸杉」を特に好んで描いていて、それを描いたり背景に入れた絵を10点以上残しているとのことも書きました。
改めてゴッホの作品『糸杉のある風景』を。これは数多くの糸杉作品のなかでも代表的な『星月夜』です。(ネットからお借りしました)

改めてプロバンスを走る車窓からの糸杉の写真を再掲。 ゴッホが見ていたリアルな糸杉。


長くなりましたので、今日のブログは ここまでとします。
ではまた。
こんにちは。
昨日 今日と、梅雨の中休みか 良く晴れて気温が上がっています。
今年も夏椿(沙羅、シャラ)が開花しました。
この木は暑さに弱いので、夏場は毎夕方、日が陰ってから たっぷりと水をやらないと木が弱り、枯れる枝もでてきて、また 翌夏に咲く花の数も少なくなってしまうように思います。
さて梅雨が明けたら夏本番! 今年も暑いのでしょうか...?

こんにちは。
先日の 南フランス (+パリ郊外) の旅行について、テーマごとに書いてみます。
1回目は<歴史遍路>。
フランス(古い名は ガリア)は イタリアなどとともに欧州の古代〜近世史の主要な舞台となった国でしょう。
日本史にて 固有名詞とともに歴史が刻まれ始めたのは卑弥呼の紀元後3世紀ごろですが、今回の旅行では、そこから さらに数百年遡る 紀元前100年頃のカエサル(ジュリアス・シーザー)による進攻の足跡にも触れたので、つい最近のパリ五輪エポックに至るまでの痕跡を駆け足で。年代順でなく訪問順になっています。容赦ください。
羽田から カナダの北極側の島々と イギリスの上空を経由して シャルル・ド・ゴール空港へ。空港近くで一泊。
翌朝は まず ベルサイユ宮殿に向かいました。車窓から「2024年パリ五輪」のメインスタジアムとなったスタッド・ド・フランスが見えます。

ベルサイユ宮殿に到着。広大な前庭。

この宮殿は、『太陽王』と呼ばれた ルイ14世 が建てたもの(工期1661年〜1681年)。
ルイ14世はフランスを統一し、さらに現在のカナダ東部、アメリカ南部のルイジアナ地域、カリブ海の島々までを植民地化して フランスをヨーロッパ最強の王国にしたことで知られる。
そして、住居 兼 行政府庁としてこの豪華な宮殿を建てたのだと。
宮殿には非常に多数の部屋がありますが、代表的な2,3枚の写真を。
下は最も有名な『鏡の間』です。「権威」「富」「 工芸技術」の粋を集めた部屋と言われます。
第一次大戦終戦のベルサイユ条約が調印されたことでも知られる。

これ (下の写真) も大変人気がある「クール・ド・マルブル」(大理石の中庭)です。
贅沢な大理石を大量に用いたのも権力誇示の象徴とされています。

ベルサイユをあとにして再びシャルル・ド・ゴール空港から国内線で 地中海沿岸のニースへ。 機窓からニース周辺の全貌を見ながら着陸へ。

ニースで2泊。 この間、ニースの 「プロムナード・デ・サングレ」(英国の散歩道)、ニース旧市街、モナコ公国、鷲の巣村 エズ などに行きました。
プロムナード・デ・サングレ・・・リゾートニースの代表的な海岸。 (ほぼ同じ構図の写真ありますが自分が写り込んでいるので、これはネットからお借りしました)

こちらの半島は、富豪たちが別荘やヨットハーバーを構えている地域だそうです。

トラムが走るニースのメイン通りのレストラン。

ニースは今でこそ欧州の人々に人気が高いフランスを代表する穏やかなリゾートと知られていますが、この地も歴史の節目の舞台。165 年ほど前の 1860年 (日本の幕末期)、ニースを含む サウ”ォア地域などがイタリアからフランスに 譲渡された歴史があるそうです。当時のイタリア(サルデーニャ王国)のイタリア統一を フランスのナポレオン3世が助けた代わりに、ニースを イタリアからフランスが 譲り受けたそうです。住民投票にもかけられて住民も賛成したのだと。ニースの料理はイタリア料理に似ており、街の雰囲気もイタリアに近い感じと思います。
鷲の巣村エズから見る海岸。
(多くの芸術家の拠点となったとされるエズ村は機会があればまた触れます。)

ニースを出てツアー専用バスで 古都「アルル」へ移動。
下の写真はアルルの『円形闘技場』。イタリアに来たのかと錯覚しました。
大きさも 層の段数も違うでしょうが、全体の感じはイタリアのコロッセウムそっくりですね。
それもそのはず、紀元前123年と 紀元前58年に、ユリウス・カエサル(シーザー)率いるローマがフランス南部に攻め入った。(ガリア戦記)
ローマはアルル地方を植民地とし、円形闘技場や水道施設などを建設したと。

アルルの市庁舎。
市庁舎はすでにフランスが主権を取り戻した15世紀頃の建物だそうですが、面白いのは、市庁舎前の広場に 古代ローマ文化の象徴とも言えるオベリスク(四角柱の記念碑)が建っていることです。ローマに支配されていた頃の文化を引き継いでいますね。

次に、アビニヨンへ。
写真は、ローマカトリック教会の旧 法王庁です。(ローマ法王庁が14世紀に一時、アビニヨンに置かれていたということです。)

なぜ、こんな場所に 法王が座すカトリックの総本部があったのか、それが歴史の綾 (あや) なのか。
アビニヨンに法王庁が置かれたのは1309年だそうです。当時、ローマは貴族同士の抗争が非常に激しく、治安が悪かったとのこと。当時の法王 クレメンス5世は 難を逃れて南フランスのアビニヨンに移った。当時のアビニヨンは、フランスにもローマにも属さない (半独立の) プロバンス伯爵の領地であったが、実態としてはフランス王の影響が及ぶ範囲であったとか。
という経緯で、ローマ法王も自由には動けなかったとされ、カトリック史の中でこの時代は、(フランスに捉われた)『アビニヨン捕囚』と呼ばれているそうです。
下の写真は カテドラル(教会聖堂)を含めた全体像です。

次の写真がアビニヨンの橋。(正式には、サン・べネゼ橋)
♬♬ アビニョンの橋で 踊るよ 踊るよ アビニョンの橋で 輪になって組んで ♬♬、という民謡で唄われた橋です。
12世紀ごろの中世の唄が 後世になって子ども向けの世界的な唄に発展したのが不思議です。

下の写真はサン・べネゼ橋を含むアビニョン旧市街の全景。
アビニョンの橋が途中までしかないのは、ローヌ河の洪水で何度も流されたためだそうです。
風情のある、また歴史の重みがある景色だ。

今日は、アビニョンに宿泊です。
ホテルがなかなか良かった。建築が新しく、部屋の設備も揃っていた。 1階には専用のBARがあり、夕食後にシャワーも終えてからナイトキャップを。
ここから近いトリノ (イタリア) で作られている マティーニを飲んでみました。Martini & Rossi は、1863年創業だそうです。

翌日は、ポン・デュ・ガール を訪れました。


これは、水道橋(高架水道橋)です。
建設は、紀元50年頃とされています。ユリウス・カエサルが紀元前50年頃に南フランスを征服してから約100年の後のローマ皇帝クラウディウス または 皇帝ネロ の時代と考えられています。
南フランス(ガリア地域)を征服したローマ帝国はアビニヨンを拠点として重視し、その上で 更に南西の ニーム地域 を、スペインに至る要衝と位置付けてニームの近代化に着手したと。ニーム地域には安定した水源となる良質の河川が無かったため、アビニヨンの水源から50kmもの長さの水道路を敷設し、ポン・デュ・ガールの高架橋で渓谷の上も渡して、ニームに飲料水と生活用水を届けたという。
アビニヨンの水源から目的地のニームの中心部までの50kmは、高低差が わずか 十数メートルしかなかったという。そのため非常に精密なルート選択と傾斜設計が必要で、当時のローマの高い技術水準を物語る貴重な遺跡として、このポン・デュ・ガール は世界遺産に指定されているとのこと。


ポン・デュ・ガールの下を流れるガルドン川。

この世界遺産は、2000年も前に建てられたものとは思えない素晴らしいものでした。
続いて「カルカソンヌ」に向かいました。

このあたりは、ずっと「プロバンス地方」です。
高い山はなく、小高い長い丘と平原が果てしなく続く。 広い国です。

同じく世界遺産の「カルカソンヌの城塞都市」に着きました。
フランスに、『カルカソンヌを見ていない者は、何も見ていない』との言い回しがあるそうです。
カルカソンヌの地は、フランス王権とローマ教会が協調して、1209年に第2回の十字軍(アルビジョワ十字軍) の派遣先の土地として歴史に名を残していると。
ローマから異端とされたカタリ派という宗教の一派がカルカソンヌの地元勢力と組んでカルカソンヌ城に立てこもったとされています。そういった十字軍に関係する場所です。現在のローマ法王庁は武力は使わないと思いますが、歴史の一時期には そういった時代もあったわけですね。

二重の城壁で守られています。

城郭都市内(ザ・シテ)は、いまは土産物商店街やレストランになっています。


ランチは、地元伝統の料理の casoulett(カスレ) が出ました。
豆と肉の煮込み料理です。白いんげん、鴨肉、豚肉が入っています。
鴨と豚が両方入っているのがユニーク。


菓子は、伝統のヌガーの店が多かったです。

ランチのあと、自由行動時間があり、カフェbarで一休みした。暑い日でした。

このあとさらに、TGVとバスを併用しながら ボルドー や ジヴェルニー など数都市を訪れ(←別に書きます)た後、出発地点ののパリに戻りました。
ツアーの最後の2泊はパリです。

ホテルは、パリ市の北西側の「ラ・デファンス」地区に取られていました。 ラ・デファンスは東京で言えば新宿副都心みたいな場所。石造りのパリ旧市街と異なり、近代建築のビルばかりです。上の写真はグランダルシュ・ド・ラ・デファンス というこの地域の象徴的な建物。
この新都心は、1958年に ド・ゴール大統領の発声で建設が始まり、1989年の完成はミッテラン大統領の時代だったと。懐かしい大物大統領の名前を久しぶりに聞きました。
ラ・デファンスは、『パリの防衛』という意味が与えられ、100年近く前の 1870年の普仏戦争で フランスはプロイセン(現在のドイツの一部)に敗れはしたが、首都のパリを守り抜いたということで、当時の兵士や関係者を讃えて新都心に その名を与えたそうです。
本ブログの説明は、ほとんどが ツアー・ディレクターの方が バスの中で説明してくださった内容です。知らない国を旅するなかで、それぞれの地を訪問する直前の説明は とても参考になり、旅の意義の一つを再確認することができました。
フランスは、今でこそ 比較的政情が安定した国に見えますが、長い歴史において、ローマ帝国はじめ ウ”ァイキング(現在のデンマーク や ノルウェイ)や イングランドからの進攻を受けて百年戦争を経験したこと、また 上に書いたプロイセンをはじめ、ドイツ域の国々ともアルザス・ロレーヌをめぐって紛争を繰り返したことを学校の世界史で学んだ記憶があります。 フランス自身も域外に進攻しました。 平和は一日にして成らず。欧州諸国が度重なる地域内戦争の歴史を乗り越えて 現在のEUという共同体の形に漕ぎ着けて域内の紛争の可能性を劇的に減らしたことは、歴史の大きな転換点になったと改めて感じます。
さて次回ですが、いつになるかわかりませんが、南仏の旅、次は別のテーマ(たとえば「芸術家の街」)で書きたい思います。
ではまた。