京都旅行の感想

 

5月中旬の京都行きは、久しぶりに4泊5日という やや長い旅行でした。
なぜ目的地に京都を選んだのか? 

 

考えてみれば、通算で 既に十度くらいは行っていました。思い出せる主なものは、小学校の修学旅行、受験の年に数回通った駿台京都会場の全国模試、当時 京都の大学の従兄を訪ねて、父の遺骨を本願寺大谷本廟に納骨のために、等々。

 

それでも、小学生には古刹や庭園を理解するのはやや難しいし、その他あった機会は じっくり滞在したものではなかったので物足りなさが残っていました。

フルタイム勤務から離れて少し時間ができ、国内でもまだまだ知らない土地が多いだけでなく、訪問回数だけは多くてもちゃんと味わえていない場所も多いので改めて旅行したいと考え始めました。京都もその一つでした。

 

はっきり自覚はしていなかったのですが、実際に行ってみて実感したことは、①日本庭園が好きだったということ、②歴史に興味があるということ、でした。

 

 

京都の思い出の原風景としては、”鴨川の河原” が あります。
受験生時代の全国模試のとき、京阪線三条駅で電車を降りて、今となっては思い出せない宿に泊まり、模試の前か後かは忘れましたが毎回必ず鴨川の堤に腰を下ろして 暫し ぼぉ~っと絶えまなく続く水の流れを見ていた頃のことを、後年でも、時々思い出すことがあったのです。
その時には、同じ高校の同級生と連れ立って模試を受けに来ていましたが、その友人は医学部に進み、後に ほんの数年前に私の父を介護施設で看取ってくれた医師となっていました。
郷里の町でクリニックを開いて高齢者の訪問診療に携わっているその友人に、今回の旅行前に連絡してみたら「久しぶりに会おう」ということになり、京都駅近くの割烹で夕食をともにして旧交を温めることができました。「あの時の宿は、鴨川の近くだったよね」と。
ただ、二人で地元の銘酒を酌み交わしている間も、その友人に担当の高齢患者さんの肉親の方から容体を相談する電話がかかって来たりして、わざわざ京都まで呼び出したのがちょっと気の毒ではありましたが...。

 

 

同じ関西でも、京都は少し敷居が高い印象がなくはありません。
先斗町の飲食店などでも、「一見さんお断り」の店は 多分まだあるでしょう。
簡単に格子戸を開けて入って行く、ということは、作法に慣れない身としては、なかなか難しい。
宿は事前に予約しておいたこともあり、また、地元で生まれた歯医者さん 兼 エッセイストが書いた京都紹介本で既に全国に紹介されていたこともあって、気楽な雰囲気で宿泊することができました。きさくな女将さんが色々と親切にしてくださり、穴場の訪問地も教えてくださり、快適な滞在でした。 数日前には宿泊礼状の葉書も届いていました。

 

 

京都はやはり歴史を訪ねる町です。
それは単に、古い神社仏閣とか 室町時代安土桃山時代とかいうことではなく、日本人の精神文化のルーツがそこにあるのではないかと、漠然とした感覚かも知れませんが。
現代的・合理的な生活習慣を超越した、超越したというか、合理性の裏側に暗黙的に存在している日本人のメンタリティーの源が、まだこの街には残っているのではないかと。 奥ゆかしさ、曖昧さ、和の心、深謀遠慮、同調圧力、排他性 etc。
日本人の良い面も、悪い面も、すべてひっくるめて。
その意味で、京都文化を訪ねることは一つの「日本人再確認」の旅かも知れません。

 

現地のお作法に精通していない私が、生粋の現役の京都人と挨拶以上の会話が成り立つかというのも興味深いテーマです。もちろん、それが成功しても失敗しても、普段の日常生活には何の利得も支障もありませんが...。
しかしながら、40年以上の長い社会人生活では見えていなかったもの、満たせなかった余白・空白部分を、今まで経験していないことを改めて知ることで埋めるのもいいのではないかと思う気持ちがあります。

 

他の国内各地も 随時訪問し、京都にはまた改めて遠くない将来に再訪したいと考えています。